「いまのままでは、お互いに隔たりがあるような気がします。試しに、呼び方から変えてみましょうか」
じきに慣れていけばいい――松葉らの言葉通り、三人での暮らしはまず楓と松葉、常盤が互いを知ることから始めることになった。
手始めに、お互いの呼び方を変えようということになり、楓は彼らを「さん」付けせず、二人は「神子様」ではなく、「楓さま」と呼ぶように改めてみる。
楓はこれまで誰かを呼び捨てにするなどほとんどしたことがない。あるとすれば、保護していた動物たちぐらいだ。
「まぐわいは互いの体に触ることでもあるから、これから楓さまの世話は、基本、俺と常盤で行う。何なりと言ってくれ」
「あ、ありがとうございます……」
「楓さまよ、腹は空いてねえか? 美味い菓子を持って来させようか。それとも松柏一美味い酒がいいか?」
「え、えっと……」
そう言いながら、松葉が膝を寄せて迫ってくるのに、楓は苦く笑う。松葉の整った顔立ちながらも人懐っこい甘い容姿に、つい、気後れを感じてしまうからだ。
惹かれるのに、迫られると怖くなってしまう……そんな不思議な魅力が、松葉には漂う。色気、と簡単に称してしまうにはあまりに複雑で、未知な魅力だ。
背後に視線を送ると、腰のあたりで太く豊かな毛並みの尻尾が揺れているから、機嫌が良いのは確かなのだろう。
「松葉、そのように食いつくから、楓さまは恐ろしがるのですよ。じっと傍に仕えて、すぐに動き出せるようにしておけばよいのです」
松葉の様子に呆れた口調で常盤が口を挟むと、松葉はムッとした子どものような表情をする。
「俺ぁ、そんな地蔵みたいな真似なんてできねえんだよ。常に相手のことを先回りして、先手を打つってのが俺のやり方だ」
「あなたの商売のやり方はそうかもしれませんが、楓さまは商談相手ではないんです。もっとジッとしておきなさい」
薬問屋の主人だという松葉は、かなりのやり手らしく、その手腕に自信があるのだろう。商売相手の心をつかむのと同じように、神子である楓の心もつかもうというのかもしれない。
ぐいぐいと積極的に来られることに、苦笑はしつつも、楓はそれが不快なわけではない。大事な神事を失敗した自分を、松葉なりに気に掛けてくれているのが、尻尾の様子からもわかるからだ。
「そうは言うけどよ、常盤。お前だってえらい楓さまの近くに座ってるじゃねえか」
「お傍に仕えるのが私の務めなのですから、当然でしょう」
シレッとした様子で松葉からの指摘を交わす常盤だが、確かに楓との距離が近い。手を伸ばさずとも触れられるほどの、インターバルが二十センチほどの至近距離に寄り添うように座している。常盤もまた、機嫌が良いのだろう。銀色のふさふさの尻尾が優雅に揺れている。
「さ、楓さま。あの狸は放っておいて、私と町を散策に参りませんか? そこの参道でしたら直ぐですし、色々な店も出ていて楽しいかと思われます」
そう言いながら、常盤は抜け目なく楓の手を取る。しっとりとしたその手触りと眼差し、そして声色はぞくりとする色気がある。中性的な美しさを感じる常盤の姿に迫られると、松葉とは違った胸騒ぎがするのだ。
「いや、それにしても距離が近すぎる! 町を歩くとか、抜け駆けなんてすんじゃねえよ」
常盤の言い分を考慮すれば、この距離も妥当と言えるのかもしれないが、松葉は納得している様子ではない。
「抜け駆けなんてそのような卑怯な真似、致していませんよ。ただこうしてお傍にいた方が何かと気づくことが多くて都合が良いだけです。町歩きだって楓さまも楽しいかと思うから提案したのです」
眉をひそめて睨み返す常盤の表情に、松葉はあからさまに気を悪くし、勢いよく立ち上がって常盤を指して怒鳴りつける。そして両者とも、途端に尻尾が二倍ほどの太さに膨らみ、耳もピンと張る。
「それを抜け駆けって言うんじゃねえか! お前はいっつもそうだよな、常盤! ずる賢い腹黒狐!」
「力技で押し通そうとする強引狸よりはマシです」
楓はまだこちらに来て日が浅いが、すでに片手では足りないほどに、二人のこうした言い争う姿を目の当たりにしている。狸と狐の半獣の彼らだが、仲は犬猿のそれと言える。
松葉と常盤をサポートする役割を担う従者たちは、そんな二人の様子に慣れているのか、「ああ、またか」という感じで気にも留めていない。
身近にこんなに怒鳴り合い、つかみ合いを始めかねない罵り合いをするような友人知人など、楓の傍にいままでいたことがないため、どうしたらよいかわからないのが本音だ。
でも、このままでは本当に二人がケンカを始めてしまう……! そう、危惧した楓は、「す、ストップ!」と、慌てて声を上げ、にらみ合う両者の間に割って入った。
ストップ、という言葉の意味を松葉も常盤も知っているかはわからないが、それまでずっと事態を窺っていた楓が大声を出したことに二人の罵声が止まる。そして瞠目して楓を見つめていた。 四つの目に突如見つめられて、楓は怯みそうになりながらも、思い切って言葉を続けてみる。「け、ケンカは、しないで……僕は、その……ケンカする人は、怖くて、イヤだから……」「だがな、この腹黒狐が!」「何を言いますか強引狸」「ケンカしないで! もしまたケンカするなら……僕は、どちらとも神事をしない!」「な……ッ?! 何言いだすんだよ、楓さま!!」「お待ちください、楓さま! それは本当にそうお思いですか?」 じりっと二人から見据えられつつ距離を詰められるも、楓も引き下がることも、発言を撤回することもなかった。正直言えば、金色の目と青い目に見据えられて震えそうなほど怖くはある。でも、こうでも言わないと、二人はいつまでもケンカをしてしまい、事が進まないからだ。「だって、僕と、その……まぐわう……って言うなら、仲良く出来なきゃじゃない? 仲が悪かったり、気まずかったりする人と、僕はそういうこと、したくないから……」 だから、ケンカはやめてほしい。そう、語尾が小さくなってしまったけれど、どうにか自分の気持ちを伝えることができた。 心臓が口から飛び出るのではないかともう程に、ドキドキしている。動物意外には引っ込み思案なところがある楓にしては、かなり勇気を出した行動と言えるからだ。しかも、楓はいま睨み合う二人の間に立ちふさがるように手を広げて立っているのだ。間近に迫る二人の気配に、怖気好きそうでもある。 その内心ドキドキしている心が、広げる指先の震えに出てしまっているのを、二人には見透かされていたのかもしれない。 しかし同時に、二人も楓の言葉に何か感じ入るものがあったのか、耳も尻尾もしょんぼりとうな垂れている。 そうして松葉と常盤は互いを見やりながらうなずき、それぞれに大きく息を吐いて答えた。「……楓さまがそう言うんなら、まあ、この狐と仲良くしてやらんでもねえわ」
「いまのままでは、お互いに隔たりがあるような気がします。試しに、呼び方から変えてみましょうか」 じきに慣れていけばいい――松葉らの言葉通り、三人での暮らしはまず楓と松葉、常盤が互いを知ることから始めることになった。 手始めに、お互いの呼び方を変えようということになり、楓は彼らを「さん」付けせず、二人は「神子様」ではなく、「楓さま」と呼ぶように改めてみる。 楓はこれまで誰かを呼び捨てにするなどほとんどしたことがない。あるとすれば、保護していた動物たちぐらいだ。「まぐわいは互いの体に触ることでもあるから、これから楓さまの世話は、基本、俺と常盤で行う。何なりと言ってくれ」「あ、ありがとうございます……」「楓さまよ、腹は空いてねえか? 美味い菓子を持って来させようか。それとも松柏一美味い酒がいいか?」「え、えっと……」 そう言いながら、松葉が膝を寄せて迫ってくるのに、楓は苦く笑う。松葉の整った顔立ちながらも人懐っこい甘い容姿に、つい、気後れを感じてしまうからだ。 惹かれるのに、迫られると怖くなってしまう……そんな不思議な魅力が、松葉には漂う。色気、と簡単に称してしまうにはあまりに複雑で、未知な魅力だ。 背後に視線を送ると、腰のあたりで太く豊かな毛並みの尻尾が揺れているから、機嫌が良いのは確かなのだろう。「松葉、そのように食いつくから、楓さまは恐ろしがるのですよ。じっと傍に仕えて、すぐに動き出せるようにしておけばよいのです」 松葉の様子に呆れた口調で常盤が口を挟むと、松葉はムッとした子どものような表情をする。「俺ぁ、そんな地蔵みたいな真似なんてできねえんだよ。常に相手のことを先回りして、先手を打つってのが俺のやり方だ」「あなたの商売のやり方はそうかもしれませんが、楓さまは商談相手ではないんです。もっとジッとしておきなさい」 薬問屋の主人だという松葉は、かなりのやり手らしく、その手腕に自信があるのだろう。商売相手の心をつかむのと同じように、神子である楓の心もつかもうというのかもしれない。 ぐいぐいと積極的に来られることに
「気の持ちようとは、要は慣れの問題ではないかと思うのです」「慣れ? 僕が、慣れたらいいということですか?」「神子様はこちらの暮らしにも、神事にも不慣れでらっしゃいます。ですから、我々とひとつ屋根の下に暮らしつつ、我々と触れ合うこと事態にまずは慣れて頂こうかと」「そうすりゃあ、神子様は俺たちとまぐわえるって言うのかぃ?」「まあ、いずれは。松葉だって昨夜わかったでしょう、無理を強いては何にもならぬと」「……それは、まあ……でもよぅ、そんな悠長なことでいいのかぃ? 患者はどんどん増えてるってのによ」 松葉の心配ももっともである。楓がふたりとの関わり方に慣れ、セックスを出来るようになるまで……など、そんな猶予があるのか、楓も気になっている。猶予がないと思われるから、昨日の強引に事を成そうとしたのだろうから。 常盤はそれでも、意をひるがえす様子はなく、「そう、案ずることはないと思います」と言うのだ。「急いては事を仕損じる、と言うでしょう。神事は神子様のご負担になりかねないことですし、何より、無理を強いて治癒力を得たところで、それ自体に効果が期待できるとは、私は思いません」 診療所を開き、実際に患者たちと向き合っているからか、常盤の言葉には説得力がある気がする。松葉もそれ以上言い募る気はないのか、口元に手を宛がって考え込んでいる。「それに、あなただって、ただ交われば事が済むほど簡単じゃないと思っているからこそ、神子様との住まいを、と申したのでしょう、松葉」 共同生活を提案してきた言い出しっぺの松葉に、確かめるように常盤が尋ねると、松葉は溜め息交じりにうなずき、答える。「まあ、そうだ。昨夜の神子様の様子を見てたら……ただまぐわって終い、ってことにゃならねえ気がしたんだよ。神子様は、花街の女より、うんと儚えんだってな」 そう言いながら、松葉は一歩楓の方に近づき、「触ってもいいかぃ、神子様」と尋ねてくる。その眼はやさしく、昨夜のような獰猛さはなかった。 楓が恐る恐るうなずくと、松葉はそっと、まるでガラス細工にでも触れるような優しい手つきで楓の頬
小一時間ほど松葉と常盤が手配してくれたお茶を飲んだり、菓子を食べたりしている間に、三人の新居とも言える住まいの用意が整ったと声がかけられた。 従者の一人に案内され、三人で向かった先にあったのは、今朝がたまで楓が過ごしていた建物とは随分と趣が違う。 楓がこれまで過ごしていたのは、学校の歴史の授業などで習った記憶から察するに、平安時代などの絵巻に掛かれているもの、所謂寝殿造りと呼ばれるものだった気がする。部屋が御簾で区切られ、畳よりも傷なりの部屋ばかりだったからだ。 しかしいま案内された建物は、寝殿造りであった以前の物よりも幾分楓にはなじみ深い気がした。恐らくそれは、建物の壁が漆喰で覆われ、中に入れば障子の間仕切りも見え、床には畳が敷かれているからだろう。「こちらが、神子様の御部屋でございます」「わあ……!」 まず通されたのは、楓の私室。そこは以前の部屋のように十畳か、それより少し広い和室だった。床の間には季節の花が活けられており、掛け軸や茶器も飾られ、隅の方には上質そうな木製の文机もある。明かり障子と呼ばれる自然光を取り入れる窓のような所からはさんさんと日が降り注いでおり、日当たりも良さそうだ。「お隣が閨となっておりまして、廊下を挟んで向こうに、松葉様、常盤様の御部屋がございます」 二人の部屋も楓の部屋と造りはほぼ同じだそうで、違いがあるとすれば、二人の部屋は縁側があることだろうという。「もし、他のお部屋が良いと思われましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」 そうにこやかに言われたものの、いままで暮らしてきたどの部屋よりも立派な部屋を与えられて、それ以上の贅沢を言うつもりは楓にはなかった。 部屋の中には、ごく当たり前のように生活に必要なものは充分に揃えられているし、なによりそのどれもが楓の私物よりも高価そうだ。 いつの間にかまた整えられたお茶の席に、松葉と常盤にいざなわれるまま腰を下ろし、楓は溜め息をつく。「いいのかな、こんなにしてもらって……」 あまりに身の丈に合わない処遇であることは、充分に身に染みている。昨日あれだけの
ジッと黙したままでいると、ふと、爺様が「そうですなぁ……」と呟く。「昨夜はこちらに招いて早々に神事を行ったことが、色々ごたついた原因かもしれませぬなぁ……」 昨夜のトラブルを振り返っての言葉に楓は身を硬くする。あの様子を知らされて、呆れられているのではと思ったからだ。 とはいえ、松葉と常盤も背負うものがあるからこそ、課せられたものを果たさねばという気持ちが強いのだろう。それゆえの強引さであったとは、いまならば考えることもできる。 ならばどうすれば……と、一同が考えに耽っていると、「ならば、」と、輪の中の一人が声をあげる。声の方に振り返るとそれは、松葉の声だった「ならば、俺と常盤、そして神子様で一緒に暮らしゃいいんじゃねえのか?」「一緒に、暮らす? 寝食を共にする、ということですか、松葉」 常盤の言葉に、松葉は大きくうなずき、更に言葉を続ける。「神子様はこっちの世界のことは何にも知らねえんだし、なにより俺のことも常盤のことも知らねえ。そんな状態で、おぼこな神子様にまぐわえなんざ無体じゃねえのか、って俺は思ったんだよ」 昨夜の取り乱しようを目にした上での松葉の見解に、常盤が同意するように頷いている。「それには私も同じ考えです。我々が神子様の御気持ちを考えず、神事を行おうとしたことが、昨夜の騒動の発端にもなっているのでしょうから……それならば、やはり、松葉の考えは一理あるかもしれませんね」 神事の実行役である二人の意見が一致していることと、なによりその内容の効果を期待出来る可能性があるからか、爺様は腕組みをしてしばらく考え、そうして口を開いた。「儂も、松葉や常盤が言う話が善いように思えるのですが……神子様は、いかがお思いになりますかな?」 不意に意見を求められ、一斉に一同の視線が注がれる。 自分なんかが意見していいものだろうかという戸惑いもあるが、ここで一言でも何か言っておけば、昨夜のような事態は避けられる気もする。しかし、何をどう言えばよいのかがわからない。 無防備な身体を曝すのであれば、相手のことを知らないのは恐怖
夢であれば、部屋に戻っていれば、そんな僅かな望みも、楓が再び目覚めて目にした景色はあっさりと打ち消してしまう。見慣れない御簾に囲まれた寝所と、いつの間にか傍に誰かが控えていて、いままで過ごしてきた世界とは別の所へ来てしまったのだと思い知らされる。「おはようございます、神子様。御加減はいかがでしょうか」 侍女の一人に尋ねられ、昨夜取り乱した時のことを思い返しては頬が熱くなっていく。 未知の行為ではあったけれど、全く何も想像すらしなかったわけではなかったはずなのに……呼吸が乱れるほどに騒ぎ立ててしまった。いくら経験がないとは言え、子どもじゃあるまいし……と、思いつつも、覆い被さってきた松葉の体の熱や、楓に唇を重ねてきた常盤の妖艶な眼つきを思い返すと、どうしても身震いしてしまう。「やはりまだ、どこか具合が悪うございますか?」 侍女の問いかけに黙り込んでいた楓に、心配そうな目を向けられ、慌てて顔を上げ、弱く笑う。「だ、だいじょうぶ、です……」「左様にございますか? では、お支度をして、朝餉をお持ちいたしましょう」 そうしてまた手際よく御簾から出され、身支度を整えられていく。昨日ここに来た時に来ていたいつものオーバーサイズのTシャツやズボンやスニーカーなどはどこかへ仕舞われてしまったらしく、用意されたのは着物だった。それも、楓でもわかるほどに上等な仕立てのものだ。 自分で着付けなどできない、と懸念していたが、そんな心配など無用とばかりに侍女たちが手際よく楓を着替えさせていく。これもまた、楓が神子様であるからだろうか。 寝所のすぐ隣には板の間があり、そこには一人分の食膳が整えられている。膳の並ぶのは真っ白な粥と香の物、何かの魚の干物、そして小さな小鉢に盛られた煮物だった。 なんだか病院食みたいだな、と思っていると、先程の侍女が、「神子様の朝餉にございます」と告げる。「御加減よろしくなさそうとのことでしたので、厨に申しつけてこのような膳にいたしました」「あ、はい……ありがとうございます」 頂きます、と手を合わせ、恐る恐る粥をひとさじ口に運ぶ